盲目の死刑囚のジレンマ




気まぐれに、細い路地に出た。
彼は一言疑問を漏らしただけで、いつものように(そして当たり前のように)付いてきた。自分も言及することはしない。
昼間といえど、雲が太陽を隠してしまうと風が荒れるだけで、冬の空気は一層冷え込んだ。
空があんまりにも白くて、目がチカチカしそうだった。
「っみー!」
ポケットに手を突っ込んで、元希さんが足をバタつかせる。暴れるたびに吐き出す白い息が散った。
この人に触れたら冷たいだろうか。きっと氷みたいに冷えている。
でもどこかで、温度なんてないかもしれないと思った。まるでそこにいないように、触れないように。
「手袋とか持ってないんですか」
「朝寒くなかったから持ってねー」
「天気予報くらい見たら」
「あのなー、オレがそんなん見ると思う?」
「思いません」
思わず笑みがこぼれる。それはいつものような軽口の応酬に対してであり、上手になった自分のポーカーフェイスに対する苦笑でもあった。
「あ、でもオレ明日は雪だって知ってるぜ」
「そりゃあ、こんな天気じゃ誰だってわかりますよ」
ちげー、と元希さんは笑って、
「タカヤがよく喋る」
一瞬、言葉を失う。――悟られていたなんて。
「なに、それ」
自分が饒舌になっている自覚はあった。
だってこんな、なにもなかったような。
なんでまだオレは、この人の隣にいるんだろう。
未だにこの人といる日々が続いている。引きずられるように、流されるように。どっちかもわからない。
けれどもうすぐ、それも終わる。答えなんか出ないまま。
「元希さん、死刑囚のジレンマって知ってますか」
言ってから、しまったと思った。
この人にそんなことを聞いたところで、無駄だ。
「何それ」
「数学者の間で議論に――」
「あーあー、やめろ。俺勉強嫌い」
「知ってます」
死刑囚のジレンマ。
彼は告げられる。自らの処刑の日を当ててみよ。そうすれば釈放してやろう。
「あんたそんなんで高校受かるんですか」
いつものような軽口の応酬になるはずだったのに。
「正直、オレもちょっと焦ってる」
返ってきたのは思いがけない真剣な声。決定的な違和感。
「オレは、プロになるよ」
元希さんは、丁寧に決然と言葉を紡ぐ。
「その自信はある。けど、いくら投げられたって待ってるだけじゃダメだって知ってるから」
冬の無音に、その声だけが響く。
「――本腰入れねーとな」
均衡が崩れる。
あとはもう、言葉を失うのみだった。
「隆也、」
はっと、意識が戻る。
「――がんばってくださいね」
歩みは止まってはいなかった。平静を装えていたと思う。
装わねばならないほど何に動揺していたのだろう。
彼の言葉?
それとも、処刑日が来ないと高をくくってどこか安穏としていた自分自身に?
「オレ、こっちなので」
歩調を速めて道を曲がろうとする。これ以上は無理だと思った。
「隆也!」
割れるような声に引き止められる。
「またな!」
そう言ってまだ元希さんはその場を動かずに佇んでいる。
オレの注意を向けるための言葉だった。
冷えて真っ赤になった頬、弾んだ息。釣りあがった目は眩しそうにゆがんでいる。



なんだ、彼はそこに居たんだ。
きっと手を伸ばせば触れることだって出来るだろう。
「じゃ」
忘れていただけだった。停滞していたのは自分だけだった。そんな言葉は彼の中に無かった。



死刑囚のジレンマ。
処刑は実行された。
オレは、その解答を知っていた。
答えなど出ないのだと。



それでも、オレ達に残された時間はあと僅かだ。










囚人は囚人でも、自白か沈黙かってゲーム論理とは別物です。
2006/10/19 update