聞いてよ雅さん。
――何だ。
樹が生意気なんだよ。
――前も聞いた。
俺に追いつくって。
――いいことじゃねえか。
……追いつかれたら、困るんだよ。





鳴は校内校外を問わず、ファンの声援が好きだ。
単純に応援を受けるのは気分が良かったし(それが女子からならばなおさらだ)、内情を知らない者からの気楽な応援は受け取る側も気楽だからだ。が、ごく身内となれば勝手が違う。恐れ知らずの鳴を目下悩ませているのは、それだった。
「鳴さん」
何も知らない悩みの種が能天気に寄ってきたのでつい睨む。初めて彼の顔を見る人は困り顔だと評するだろうが、それが単に顔のつくりであることを鳴はすでに知っている。もっとも、鳴が睨んだことにより今は本当に少し困った顔をしていたが。
「べっつに! さ、早くやんぞ」
樹と鳴。捕手と投手。距離を置いて向き合うと、彼は口元だけで少し笑う。それを見るたびに鳴は苦い表情をしてしまうからグラブで顔を隠す。樹は気付いているだろうか?
樹は生意気だ、というのは何も鳴の暴言だけではない。少なくとも鳴はそう思っている。口を開けば二言目には口答え。それが樹という奴だ。だが、どういうわけだか樹は鳴をとても尊敬していた。その感情がほとんど崇拝に近いレベルだと気付いたのはいつだっただろうか。
どこかの映画から引っ張ってきたかのような大げさなセリフを臆面もなく言い放ち、テレビにかぶりついて好きなアイドルの処遇に一喜一憂する、少々視界が狭くて少々思い込みの激しい少年が樹だった。彼は鳴の放つ硬球に絶対の信頼を寄せていた。そう、女子の黄色い声援とはわけが違うのだ。
「ナイスボール!」
この程度ならいい。褒められるのは好きだし、ある程度乗せてもらった方が気持ち良く投げられる。ただ、樹は時たま、しみじみといった風情で、いかに鳴の球がすごいのかということを延々と語る。憧れというフィルターはあるにせよ、鳴が全国を相手に張り合える投手というのは事実で、樹が語る内容もまた真実だった。だから、樹の話を聞き流しながら鳴は、鼻が高いのを通り越して、とても怖くなる時があるのだ。



「困る?」
言うつもりはなかったのに、口からぽろりと言葉がこぼれてしまった。
原田の前では、鳴は気を緩めてしまうのだ。
オウム返しに問うてくる顔を盗み見、下手に取り繕わない方が賢明かと鳴は溜息を吐く。
「いや、なんつうの? ほらあいつ、豆腐メンタルだからさ」
原田の表情が固まった。声を発してはいないのに、100デシベルくらいの「は?」という圧力を顔全体から感じる。
「……何さその顔」
「自覚あるのをわざわざツッこまねえよ」
温情が逆に痛くて、鳴は俯いてつま先で土をかき回す。
「……万一あいつが俺に追いついて? 俺のことこんなもんかなんて思ったらさ? いや、思わせはしないんだけど。仮に。……思っちゃったらさ、あいつ、不安になるんじゃないかってさ。野球するの」
「……それは、お前が」
「うん、わかってる」
お前だけが背負うことではないと、二年を共にした相手は、そう言おうとしたのだろう。
「でも俺は、エースだからさ」
原田が、分厚い手を鳴の頭に置いた。
「潰れんなよ」
「とーぜん。俺を誰だと思ってんの?」
「……意外と打たれ弱いわがまま王子かな」
「その先入観、絶対返上するから!」
「先入観っつうか……まあいいや」



鳴が次に樹を見つけたとき、そこでは看過できない状況が発生していた。
寮の共有スペースで、樹の一学年上、つまり鳴の同級生たちに囲まれて。
「そういやあのときの成宮は……」
「どうしたんスか?」
「お前はまだ入学してないから知らねえよな? あのな……」
「ちょおっと待ったああああああああああ!!」
たまらず止めに入った。前後の文脈的に、確実にまずいことが暴露されようとしていた。
「うおっ!?」
「あ、鳴さん」
ここでも平常心の樹をさすがに殴りたくなってくる鳴である。
「言った? なあお前ら、言った?」
「いや、まだ」
「そう。なら今後も言うなよ。樹に変なこと吹き込んだら殺す」
鼻息荒く威嚇する鳴に、同級生たちは肩をすくめて散っていく。
「俺のけ者みたいじゃないですか」
「おとなしくのけられてろ」
樹が不満を露わにするのを封殺すると、気が向いたら教えてください、と言い募る。曖昧に答えて背を向けた。
不安の芽はひとつひとつ潰す。自分と樹は天と地ほど離れていなければならない、というのが鳴の持論だった。そうでなくとも、せめて樹から鳴の背が見えないほどには遠くなければ。
そうでなければわかってしまう。本当は鳴が、稲実のエースが、自分自身と目の前のことにいっぱいいっぱいなのだと。
ひとつ、鳴は失態を犯した。
この場を切り抜けたことに安堵し、気付かなかったのだ。あの場を動かずにいた日伯ハーフの少年が、樹にこう耳打ちするのに。
「気になるなら、教えてやろうか?」



枕に顔を埋めてうつらうつらとしていると、微かに布団が振動した。もぞもぞと手を伸ばして携帯電話を手に取る。バックライトが光っている。
『お前、なんであんなに必死だったの? 俺らが言わなくても、いつかバレるかも知れないだろ』
人が夢の世界に飛び立とうとしているときに何と面倒くさい用件だ。無視を決め込んでもいいが生憎寮暮らしだ。その気になれば相手は部屋に乗り込んでこれる。服を着るのを面倒がって出てこないかもしれないが。
『エースがしょぼかったら士気が落ちるだろ。樹に限ったことじゃなく』
手早く文章を打ち込んでいく。気持ちよく眠れそうだったのに目が冴えてしまった。ほどなく、返事が来る。
『それで駄目になるなら、ここまで生き残ってないだろ』
いやな道の塞ぎ方をするやつだ。俊足はグラウンドの上だけでいいのに。
『他に理由があるんじゃねえの』
鳴の返信を待たずに追撃が来た。
「なんなんだよ……」
鳴は唸った。自分の声音が弱弱しい。
一年前。敗北に折れかけたこと。鮮明に思い出せる。思い出してはその傷が痛くて暴れたくなる。
でも、鳴はエースだ。チームを守るべき人間だ。駄々はこねられないし、こねたくない。そして、その虚勢を張った姿をずっと見ていたのが、あいつだ。
理由なんかあるに決まっていた。樹の尊敬する成宮鳴は、絶対の力ですべてねじ伏せる、化け物じみた投手だからだ。
また携帯電話が震えた。
『もし今、この画面を樹が見てるとしたらどうする?』
鳴は緩慢な動作で文字を打った。
『樹とお前、どっちの首を先に落とすか考える』
送信ボタンを押したところで、ノックの音がした。



「すみません、寝てましたか」
入ってきたのは樹の方だ。
「起きてたよ。てか知ってんだろ」
意図せず棘のある声が出て、樹は俯いた。
「カルロスに聞いたの」
「いえ、全部は。本人に聞けと」
「……あいつ、なんて」
「鳴さんは引きこもりだったって」
「……は?」
鳴の声に、樹は困惑した顔を見せた。
間違ってはいないが、ニュアンスが間違いすぎている。いくらなんでも恣意的というものだろう。
「でも高校に入ってからの話みたいでしたし、おかしいですよね? 引きこもってたら野球できないし」
「……」
本気で何も知らないようだった。いよいよ鳴は頭痛を覚え始めた。
腹を括らないといけない。
「……お前、去年うちがどこまで行ったかは知ってるな?」
「はい」
何をいまさら、と樹の顔に書いてあった。鳴は深く溜息を吐いた。
「……負けた後、立ち直れなくてさ。何日か部屋にこもってた」
観念して白状した。樹の表情を窺う。目が点になっている。
「……笑えば?」
「いや、笑いませんけど、そうか……そう、だったんだ」
上の空のような口ぶりに、やはりなと思う。樹は、処理できないことをなんとか現実として頭の中に落とし込もうとしているようだった。
どこか投げやりな、暗い気分になって、樹に言ってしまった。
「この話、お前の言う『すげー鳴さん』じゃ全然ないだろ。だから嫌だったんだよ」
「……は? じゃあ俺、鳴さんの見栄でのけ者にされたんですか?」
「これそういう次元の話じゃ……! ……はあ、もういいや、見栄でもなんでも」
三角座りになって、膝にあごを乗せる目線だけを上げて樹を見た。しかし、失望も侮蔑も、ほかのマイナスな感情も、樹の表情からは読み取れなかった。樹は、ゆっくり、言葉を選んでいるようだった。
「鳴さんでも痛いって思うことあるんですね」
「痛いよ。特にお前見てると痛々しくて、痛くて、痛くて、殴りたくなるくらい……」
不意に、泣きそうになって拳を握りこむ。
頭上に影ができた。樹が距離を詰めてきていた。顔が見えないように抱きしめた。
「鳴さん、俺……」
何か言いかけた樹が言葉を切り、そして
「敵、取りましょうね」
と言った。そのセリフは物騒で、また芝居がかっていたが、鳴はいつもの罵倒を引っ込めて、なんとか、「うん」とだけ返した。






2014/06/12