初めてのキスは水道水の味がした。
悪くはなかった。ただ、味がわかるようなやり方をした自分に驚いた。
差し出した舌をしまう。奥までねじ込んではいない。樹はまだきつく目を瞑っている。
軽く頬を叩いた。
「起きろ」
「っ」
やっと目を開けた樹ははっきりと赤面していて乙女気取りかよと思った。お前の方がデカいくせにバカみたいだ。ーーいや。
「お前、小さく見えんな」
「……はい?」
樹が鳴の前で小さくなるなど普段なら絶対に有り得ないことだったが、この状態は小さくなっているというほかない。
「……まだ、信じられなくて」
樹が視線を落とす。信じられないのはキスをしたことか、それともお前のことは本気だと暗に告げたことか。聞こうとしてやめる。どちらにしても意味は同じだ。それに、この『信じられない』はネガティブな意味ではない。鳴が樹の手を放すなどという無意味な悲観は、さっき払拭してやったばかりだ。
「でも、すごく嬉しくて」
「……当たり前だろ」
言葉に詰まって、普段通りでないのは自分も同じだと鳴は思い知る。当たり前だろ、この成宮鳴様の好意なんだから。そう、ふんぞり返って言うはずだったのだ。稲実の絶対のエースなら。
睨むような目付きで樹を観察する。やっぱり男だ。完膚なきまでに男だ。それも日本人としてはデカい部類だ。体の出来ていない一年のくせに、身長も体重も鳴よりある。いっそその場のノリに乗じて脱がしてやればよかった。人に言うのを憚るようなことをしたしさせたのだ、何も怖くないはずだった。そうしたら、鳴の覚悟もよりはっきりと固まったはずだ。
「……鳴さん?」
難しい顔で黙り込んだ鳴を訝しむように、控えめな声が呼んだ。ハッとした。放っておいたら、樹はまた余計なことを考え出すに違いなかった。
それは断じて阻止しなければならない。このバカを泣かせるのはプライドが許さない。
今度は頬に唇を触れさせた。柔らかな弾力が返る。
「お前に言ってやりてー文句とか文句とかすげーあったんだけど忘れちゃった」
「は? 文句!?」
大げさな声を上げる。いつもの調子が戻ってきた。かけらほどの色気もないが、これでいい。このくらいが鳴にも、やりやすい。
「お前の一言一句がすっげ恥ずかしくて寒いから」
「んな……!」
樹は逆上しかけ、しかし、そんななりはすぐに息を潜める。いい子だ。捕手たる者冷静でいてくれなくては。
「文句って」
おとなしくなったのは、頭に引っかかった疑問を優先させたかららしい。けれど鳴は、その疑問に答えてやることができない。忘れたというのは不正確で、正しくは、樹に文句を言う理由がなくなったのだ。
「ん、もういいよ」
答えた声が随分甘っちょろいというか、優しげになってしまってむずがゆい。だが、それすらも含めて、もういいんだと思えた。
「もう、いいの」
樹の頭に手をおく。ぽん、と軽い感触。何秒かあって、樹がうなずく。それでいい。
ただ俺を信じていろ。鳴が言いたかったのは、それだけだ。
「今日のこと、忘れないと思います」
また、当たり前のことを言う。だからこう返してやる。
「忘れたら百叩きな。バットで」
万が一樹がそんな不義理を働いたなら、当然の報いだと鳴は言い切るだろう。
なぜなら、この日のことを、鳴だって忘れることはできないのだから。






2014/04/12