回想電車




しんとしていた。
音なんてないのに、『しん』という音が聞こえてきそうだった。
手に持った傘を見る。まっさらな雪を踏みつける瞬間のようなためらいがあったが、観念して水滴を払う。
バサバサと大げさに響いた音に気を止める人はいなかった。
傘を閉じると、再び音の無い夜が訪れた。
人気のまばらになったホームに立つと、空気の冷たさがよりリアルに感じられた。
冬の温度がじんわりと体に沁み込んでくる。
ぼんやりとしたライトが、疲れた目にやけに眩しかった。

足下を轟音で揺らしながら電車が入ってくる。
空気が白く照らされて、息を吐いているようだった。
やはり人気のない電車に乗り込み、辺りを見る。入り口付近を確保できそうだ。
ぐるりと見回す途中で、同い年くらいの人物のうつむいた姿が目に止まった。
「栄口?」
ピンと来たと思ったら、元チームメイトがそこに居た。
見慣れた帽子を被った頭が声に反応して上を向く。茶色の短い髪が覗く。
「あ、阿部じゃん」
予想通りの相手は、意外そうにこちらの名前を呼んだ。この時間に乗り合わせるのはもしかしたら初めてだ。
よくよく見れば、鞄も野球部のものだった(これは自分も同じだ。持ち替えが面倒で引退してからも使い続けている人間が多い)。
「おっ前、目立つ格好してんなあ。今や天下の有名校だぜ。その帽子被ってて囲まれなかった?」
「わかんない、目ェつぶってたし」
「なんだ、寝たフリかよ」
「そういうわけじゃないけど」
寝ぼけたようなぼんやりした声でそう言って、くぁ、とあくびをひとつ。眠いのは本当らしかった。
起こしちまったか、と思ったが、寝つけていたわけでもないようなので、まあ、いいということにする。
「塾?」
「あー、お前もだろ?」
「うん」
ぽつり、ぽつりと言葉を交わし、途切れる。
決して居心地の悪い沈黙ではなかった。
車内をまどろむような空気が包んでいる。

ふと栄口を見ると、重力に引っ張られて体が椅子に沈んでいくところだった。
上半身が背もたれに引っ付くにつれ、座り方が浅くなって足が通路に投げ出された。
今度こそすやすやと寝息を立て始めた。
なんとなく凝視する。
やや幼い感じのする顔立ちは変わらないが、最初に会った頃よりは幾分たくましくなっているように見える。
ああ、だからか。
目に付いたことも何かがひっかかっているような感じも。
流れた時間とちぐはぐに見えたから。
カーブに差し掛かり車体が大きく傾いだ。
「わっ!」
椅子からほとんど落ちかけた栄口が目を覚ます。
自分の大声に驚いて口をふさいで周りを伺い見る仕草に、本当に変わらねえなと笑いが漏れる。
口から手をどけた栄口が苦笑を返してくる。
「ねぇ」
「ん」
「なんで帽子被ってんの」
引き止めていた疑問がするりと落ちた。
栄口が固まる。言葉に詰まったままで、目を瞬かせる。
「傘持ってこなかったんだ。雪降ると思わなくて」
「ああ、それで」
「そんでロッカーに入れっぱなしだったこと思い出して、被ってきた」
一息に言い終えた栄口に、こいつもオレと同じなのかな、と思う。
オレは帽子をどこにしまっただろうか。
「オレ現役じゃないし、捕まらなくて良かったよ」
記者もがっかりするだろうしさ、と栄口は笑う。
すぽっ、と帽子を脱いだ。
「あ、」
「ん?」
「――脱がなくても平気じゃね? その筋の人もいなさそーだし」
「なにその筋って。ヤクザかよ」
再び栄口が笑い出した。
「記者だよ、記者」
「――うん」
帽子は弧を描いて、形の良い頭の上に納まる。
――痛烈な当たり! 抜けるか! いや、しかし
「セカンドの栄口、これを捕る!」
「やーめーろーよー。あのおっさん大げさなんだよ」
「あのビデオは傑作だな。あの実況うちの家族に大好評だ」
「試合より実況が白熱してんのもどうなの、って感じだけどね」
伸ばされたグラブに包まれた手、転がって泥だらけになるユニフォーム。
頭の中で容易に像を結ぶことが出来た。
「うん、現役だっつっても全然バレねぇよ」
「はは。バレてくれたほうが有り難いかも。もうインタビューは」
「腹に来る?」
「お前なー。違くないけどさ」
こんなに記憶は鮮やかなのに、どうしてあの場所がこんなに遠いんだろう。
そう思ったら、また自然に言葉が出ていた。
「な。全部終わったら部活に顔出しに行かねェ?」
「へ?」
面食らったような顔に、なけなしの決意が折れそうになる。
それでも、言わずに終わることはしたくなかった。
「受験終わったらさ。嫌か?」
「や、嫌じゃねーよ! つーか」
突っ伏して顔を掌に埋めた栄口は「あ゛〜」などと唸っている。
「オレもそう言おうと思ってたんだよ」
「――本当に?」
言って、よかったんだ。
「嘘ついてどうすんだよ。それにオレ、引退してから一度も行ってねーんだよな」
「んじゃ、感動の再会ってやつだな」
「モモカン、感激で勢いあまって頭ぎゅーってしてくるかもね」
「それは勘弁してくれ」
アナウンスが降りる駅だと告げる。
なんとなく口を噤んだ。それから何も言わずに電車を降り、駅から出た。
風は夏のように水分を含んでいて、先程去ったひどい天気を思い出させた。
雪が融けた後の地面はぐちゃぐちゃで、靴のでこぼこに土がめり込んだ。
もう11時になろうかというのに、二人して立ち止まった。
言葉を探しているのだと、お互いにわかった。でも、そんなもの必要ないともわかっていた。
「あべ!」
大きな声に意識を引かれる。栄口は身体を帰路に向けていた。
「――な」
言葉を紡ぐ口だけがスローモーションで見えた。でも、何も聞こえない。
「明日な!」
二度目で声がようやく届いた。張り詰めた顔に返事を投げる。
「おう」
キュッと、鍔を掴むのが見えた。ああ、そんなことまで抜けていない。
帽子とウインドブレーカーの姿が豆粒大になっていく。
(――ズボンが制服じゃなければ完璧だな)
すぐに踵を返した。無意識に足早になる。胸が鳴っている。

澱んでいた焦燥がほんの少し消えた気がした。
オレ達が確かに居た場所は、捨てなくてもいいんだとわかったから。
だってそれは消え去りはしない。心がそこにある限り。












Sound Scheduleのピーターパン・シンドロームがさかべにしか聞こえなかったので電車がモチーフです。
この話は絵が描けたら漫画で描きたかった。
漫画が描けなくて悔しい思いをしたランキングトップ3入りはかたいな。


2006/09/08 update

2010/07/08 novelist.jpの#kaiteタグに投稿してみました。