喧嘩をした。 傍から見る人間がわかりやすいように、納得するように説明するとしたら、そうなるのだろう。 たとえ九割九分、相手が一人で拗ねているだけだとしても。 一昨日から財前の部屋のドアは閉まったままだ。 靴は綺麗に揃えられた(直したのは自分だが。酷い脱ぎ散らかしようだった)ままずっと同じ場所にあるので、どうやら食事と風呂、トイレ以外は完全に自室に篭っているらしい。 それでも生活は成り立つのだが、問題のある事態だということに変わりはない。 しかも、どうやら原因は自分にあって、それがどれかまでうっすらと分かっているとなっては、こちらで努力しないわけにはいかない。 第二関節で軽くドアを叩く。返事はない。 眠っているわけではないだろう。中から微かに物音がする。 お粗末な狸寝入りというべきか、わざとやっていると捉えるべきか。 どちらにしても、その意味は『許さない』だ。 いよいよ参った。根が深い。 言葉を尽くす段階はもう過ぎた。こうなれば、ここは本能に訴えかけてみるとしようか。 「飯」 朝の七時過ぎ。夜中に起き出して何か食べたのでなければ腹が減ってくる頃合だが、流石に釣られて出てくるほど相手は単純ではなかった。 しばらく、立ち尽くした。額をドアに預けて、思いを巡らせているうちに時間がたつ。はっとして時計を見た。 なんとしてでも今解決してしまいたかったが、今度は自分のタイムリミットのようだった。 「……テーブルに置いとくから。腹減ったら食え。なるべく冷めないうちに」 額を預けたポーズのまま呟く。ひやりと冷たい。 ほんの少しの期待がないでもなかったが、やはり声は返ってこない。 「行ってくる。火だけは気をつけろよ」 諦めて最後にそう言って、しんとした家を出た。 財前の不在は、じわじわと自分に影響を落としていた。 同じ屋根の下で過ごしているのだから不在という言い方はそぐわないかもしれない。ただ、視界に彼がいないということは不在と変わらない。 それを自覚したのは、ペンを持ったままで固まっている自分に気付いたからだ。 これじゃダメだと頬を張る。それでもその横からどんどんと思考が塗りつぶされていく。 家に電話をしてみようか。都合よく休憩時間になっていたことだし、このままでは何も手に付かない。 頭で諳んじるまでもなく指が覚えている番号を辿る。数秒置いて、呼び出し音が鳴り始める。 が、それだけだった。 携帯からでは間違いなく取らないだろうから目の前の受話器を使ったが、自分が家の番号を覚えているのと同様に、向こうもここの番号を把握しているらしかった。 それなら公衆電話……と考えかけ、財前は知らない番号からの電話は一切無視するということを思い出してやめた。 机の上で組んだ手に頭を載せ、小さく息を吐く。焦りと不安に、鼓動が早まる。 苦しい。 とりあえず何か胃に流し込みたい。思い立って、振り切るように席を立った。 結局、帰りの電車まで引きずったままだった。 隠そうとしてもやはり表に出ていたようで、二度ほど何があったのか尋ねられた。心配そうな表情に心が痛んだが、弱く笑みを返せたのみだった。 心が弱ってきている。 考えるまでもなく会えないからだ。 側にいるのに会えないのは苦しい。けれど多分、側にいられないのは、もっとだめだ。 早くあいつのいる空間に帰りたい。相手を思い浮かべて、自然、足早になる。 玄関に辿り着くまでに、さらに日が傾いだ。隣室は明かりをつけている。 開けようとして、何か違和感を覚える。カチャリ、と小さな音。閉まっている。 いつもなら財前は一人でいるときに鍵をしない。 つまりこれは、部屋を出ているときに予想外に自分が戻った場合うっかり顔を合わせてしまうから、ということだろう。 意思を挫かれそうになりながら、それでも鍵を開け、中に入る。 「ただいま」 真っ暗だった。さっきまで見ていた空の色が、ガラス越しにさらに濃く見える。 これだけ用心していた割に部屋にいるのか、財前の姿は見えない。 キッチンに目をやると、用意した朝食は全て空になっていた。ちゃんと食べたようで一安心だ。 それでも食器はひとつも洗われていないのが頑なで相手らしく、苦笑が漏れる。 もちろん作ることもしない奴だ。昼はカップラーメンを食べたのだろうとゴミ箱の一番上の空容器から知れた。 それから、くるりと室内を見渡した。 真っ暗な部屋のただ一箇所、財前の部屋の閉じられたドアの細い隙間から、光が漏れている。 顔が見たい。声だけでも聞きたい。 ゆっくりと、ドアの前に立った。あまり足音を立てないようにはしたが、中の相手には自分がここにいると伝わっただろう。 数時間前と同じだ。気持ちも、変わっていない状況も。 でも、引く気はない。 こうなってから何度目かのノックをする。 「出てきてくれないか」 今度は、身じろぎの音も立たなかった。 聞こえないふりを決め込んでいるのかもしれない。だがもう、じっとして聞いていると、好意的に捉えるのみだ。 「お前の顔が見られないのは、耐えられない」 言葉を言い終わるたびに、波立った空気の震えが止まって、耳に痛い静けさが落ちる。 たまらず、また声を出す。 「ナオ」 「鍵開いてんだろ」 細い声が聞こえた。やっと聞けた。ずっと聞きたかった、声。 その瞬間の自分の顔はとても惨めで、さらに嬉しさで崩れていたに違いないが、構わない。 もう我慢なんか出来なくなって、財前を抱き締めるためにドアを開けた。 2007/03/30 |