四月の初旬はまだ寒い。
顔に水を浴びながら、御幸はそう思う。
沖縄ではもう海開きらしい。東京の風にちくちくと刺されていると、それはどこか遠い世界の話に思えた。
最後に水を口に含む。
「お疲れ様」
「ん、」
背後から、落ち着いたアルトが聞こえた。
蛇口を閉じ振り返ると、自分のものより華奢な眼鏡をつけた女性と目が合った。
「礼ちゃんか」
青道野球部の副部長にしてスカウトの高島礼だ。
ある程度年の行った人間の多い高校の指導者の中で、20代の彼女は目立った。
カッチリとしたスーツを着ていることが多いが、部活の時はジャージを着ている。
美人だから何着せても似合うけど、ジャージだけはなんだか妙だ、とぼんやりと思う。
(何聞きに来たんだろう)
わざわざ労いに来たわけではないことくらいすぐにわかった。
それはここ一年間の経験だとか似たもの同士(彼女のほうが一枚上手だろうが)が肌で感じるだとか、そんな感覚だ。
視線で続きを促すと、話が早いとばかりに薄い唇の端を持ち上げて微笑んだ。
「どう? 一年生、あなたから見て」
「なかなかじゃない。ああ、そういや」
思い出して、御幸は笑う。
「面白い奴連れて来たっスね」
「え?」
「あいつ、あれも礼ちゃんが見つけたんでしょ」
とぼけるな、とばかりに畳み掛けた。
あいつ、とは新入生の沢村栄純のことである。
色々な意味で規格外の奴だ。
一年だった頃中学生の彼と顔を合わせたことがあるが、その破天荒さは変わっていない。
むしろ今日一日で、御幸の中での彼の評価は『面白い奴』から『すごく面白い奴』に変わっていた。
あれも、礼に引き合わされたようなものだ。
「ウチに来てくれるとは思わなかったわ」
半分諦めていたの、と礼は言う。
「へ?」
思わず間の抜けた声が出た。
「エースになるため」と言い切った彼は、大きな野望と確固たる意思を持ってここに入ってきたのだと思っていたのだ。
「あの子、うちのような――悪い言い方をすれば――寄せ集めのチームが嫌いみたい」
ぽつり、と。しかしはっきりと礼は語る。
「東君にも喧嘩売ったし」
「ははっ。あれは笑いましたよ。ほんと肝の座った奴」
「あの子もあなたに言われたくないと思うわ」
「ひどっ」
「最初にね、真っ向からうちのやり方を否定された。それほど長くスカウトやってるわけじゃないけど、あんなことはあれが初めて」
「…………」
思い出したのは強い瞳。
一人で野球はできないと言った彼の、仲間という言葉を口にするときの純粋なエネルギー。
「なんであいつ、うちに来たんすか」
素直な疑問を漏らすと、「本当にわからないの?」と逆に問い返された。
「ここしか来るとこがなかったとか? 頭良さそうには見えないし」
茶化し半分、本音半分の答案には、正解半分、間違い半分だと回答を貰った。
「御幸君。知っての通り、彼が『見学』でここに来たのは後にも先にもあの時だけよ」
そう、あの一回だけだ。それから今までの間に、何があったというのか。
「帰り道で、あの子ずっとぼーっとしてたわ。あの『試合』の後の話よ」
その意味するところとは。
「あの子を動かしたのは、きっと君よ」
あの日起こったこと。それが彼をここに連れてきたというのか。
「……へぇ」
光栄なこって。
自分の顔が笑みの形を作るのがわかった。
「大変ね。あの子に気に入られるなんて」
からかっているのかプレッシャーをかけているのかわからないから性質が悪い。
本当に、この人には頭が上がらない。
「ま、せいぜいご期待に沿えるよう頑張りますよ」
ひらひらと手を振って向きを変えると、よくわからない叫び声を上げている栄純が目に入った。
こらえきれずに笑いが声になる。構いやしない。どうせ相手には聞こえないのだから。


――もっともっと楽しませてくれよ、少年。






2006/10/08