向かいの小屋が見えない。 突然降り出した雪は瞬く間に視界を覆い、周囲の僅かばかりの家屋の扉を閉ざした。 今頃下界のテレビのアナウンサーは「山の天気は気紛れ」などと暢気に言っているに違いないが、住む者にとっては死活問題だ。 吐いた息が凍るのを感じながら、一也は静かに絶望していた。 「雪のせい……だけじゃ、ねぇよな」 「おい」 背後の扉が開き、家主の声が耳に流れ込んでくる。 迂闊だった、内心一也は舌打ちする。もう少し離れた場所で確かめていたなら見つかりはしなかっただろうに。 ただ、それをやっていたら帰れなくなっていたかもしれないので仕方がないといえば仕方がないのだが。 「風邪ひくぞ」 後ろ手に扉を押さえて促すのには素直に頷き、中に入る。ここで渋っても面倒なことになるだけだ。 ただでさえ、これから面倒なことになるのに。 自分に続いて家に入った栄純が、さみー、と手をすり合わせている。部屋の中でも白い息に、こっそりと笑う。 「俺、今年はお前と一緒に行けない」 気付くと、言葉が口から滑り出ていた。一瞬前までいつ切り出すか必死に悩んでいたというのに。 目を見開いた栄純がこちらを向く。どうしよう、心の準備が出来ていない。 直後に来るであろう大声を本能的に予期し、一也の手は無意識に耳を塞ぐ。 「は!? 今更何言ってんだ!」 そう、今更、なのだ。 足下には、綺麗に包まれ、子供に届けられるのを待つばかりのプレゼントたち。 クリスマスは明日。つまり、出発は今夜だ。 けれど、悔しくて、認めたくなくて、意識の外にやっていた。我ながら最低だ。 あるいは、と僅かな希望を抱きもした。しかし、それは先ほど見たぼんやりした白い景色の前には儚くも崩れ去った。 「どうしてだよ」 当然の問いに、ふう、と細く息を吐き出す。こんなことになったなら、何も告げずにひっそりと居なくなろうと決めていたのに。 だが、逃げ場はない。一也は覚悟を決めた。 「視力、ガタ落ちしてるっぽい。雪のせいかとも思ったけど、前は吹雪いてても平気だったし」 固まった栄純から返事はない。だから、冗談めかして続ける。 「山から出る前にお前を遭難させちまう」 色濃い絶望が陰となりじわり、と栄純の顔に這い上がった。自分のものが映ったようで、一也は苦しくなる。 栄純のトナカイであること、彼と組めることを誇りに思っていた。 だからこそ、完璧な仕事が出来ないなら、傍にはいられない。責任感などではなく、くだらないプライドだ。 栄純の口元が動く。張り付いた唇を剥がす音が聞こえて来そうだった。それほど長い沈黙の末に、小さく小さく声を発した。 うつ向き気味のその顔からは、先ほどの、状況を信じたくないとでも言いたげな表情は抜け落ちていた。 「――走ってくれ」 「だから無理だって、」 この期に及んで何を。一也は内心苛立ちながらも、宥めるための台詞を吐く。 組むなら他の奴がいる、そう続けかけたところで言葉を遮られた。 「走ってくれるだけでいい」 「え」 今度は一也が言葉を失う番だった。栄純は勢い込んでまくし立てる。 「アンタが見えなくても、俺が方向とか全部指示する。俺が目になるよ」 世界が開けた気がした。彼はこんな自分を許すという。 ――今だけじゃない。いつだって、栄純が光を与えてくれた。 「さっき俺が声かけなかったら、帰ってこないつもりだったろ」 「……」 「目が見えなくなったって、走れなくなったって、俺にはアンタなんだ」 他の奴と組めなんて、言うなよ。真一文字に結ばれた唇が泣き出しそうだ。 だから、その代わりに、一也は笑う。 「道わかんのかよ? いっつも俺に任せっぱだったのに」 「どうにかする!」 支度を始めた気配に栄純がぱっと顔を上げた。 紅潮した頬に喜びが滲み、目がきらきらと輝いている。これではどちらが主人か分かったものではない。 もこもこの赤い服をやっと着始めた栄純を視界の端に捉えて、一也は呟く。 「いつもと逆だな」 最短ルート、時間の計算、それらすべてを一也は行ってきた。 生まれた場所が違ったなら、タクシーの運転だって出来ただろう。先ほどの言葉は冗談だけでもない。 だが、栄純の顔には何の力みもない。そして、そんな彼だからこそ皆が心待ちにしている。 「俺、時々子供に嫉妬するよ」 お前が家に来てくれるんだもん。ずっと一緒にいるのに、変な話だけど。 靴の紐を縛り直しながらぽろりとこぼした言葉に、栄純が目をぱちぱちとさせた。少しの間を置き、口を開く。 「じゃあ、プレゼント配り終わったら、今年はいつもよりゆっくり帰ろう」 デート、と照れくさそうに微笑んで言うと、一也が返事を出来ずにいるのに構わず、栄純は急かす仕草をする。そろそろ時間だ。 トレーニング用のタイヤよろしく橇を引きずって、栄純が出て行く。一歩ごとに、肩にはらりと雪が降りる。 一也は憧憬に似た眼差しで栄純の背中を見つめる。 今年も、こいつのためにベストを尽くそう。 サングラスを着け、いつもの人を食ったような笑みを浮かべると、一也は主人の後に続いた。 2008/01/18 |