午前10時の教室は、妙に浮ついたざわめきで溢れていた。
吹く風はまだ冷たいのに、校庭には花が咲き乱れている。そんな、春のような違和感。
積もる話とお別れと。
毎日一緒で何が積もるのだろうと思うが、それでも話は尽きないらしい。
積もる話とお別れと、それから。
「……うっせーなあ」
机に座って、大欠伸をひとつ。
陽射しは漂う冷気を弱く溶かす。
暖房を使わなくなった季節に、窓際の席は有難かった。
ふと思い立って後ろを見れば、春眠暁をなんとやら。
「東照宮に出荷してやろうか? ヒャハハ」
わずかに身じろぎしたかと思うと、とろんとした目を向け
「俺は猫じゃない」
と言って、またすぐに机の上にダイブした。
「つまんねーの」
饒舌な奴が黙るとやりにくいことこの上ない。
窓の外を見ると、斜め上から降ってくる日光に射られる。
目を細めて視線を下にずらすと、桜の大木がざあざあと音を立てて風に揺れていた。
惜しげもなく花を散らすそれに思うところがないわけではないが、一番は『新入生かわいそうだな』だ。
きっと、四月には殆ど散ってしまっているだろうから。
「すげ……」
ひときわ強い風が吹いて、視界が薄紅で埋まる。
細く窓を開けてみる。
途端吹き込む外気に思わず身を震わせ、慌てて窓を閉め直す。そして、もうひとつ侵入してきたものに気付く。
桜だ。
外を舞っていた花弁が、眠り猫の頭の上に落ちている。
文字通りの猫っ毛からそれを掬うも、本人は意に介した風も無く、入り込んだ冷たい空気にも微動だにせずに眠り続けている。
「んとに、良く寝ること」
「倉持ー!」
独りごちたところで、背後から声がかかる。
「うん?」
身体を捻って応対すると、ずい、と大きな塊が差し出される。
「寄せ書き書いて」
「おー。ペンちょーだい」
ほい、と投げて寄越されたのは、人の顔に落書きをするのにでも使いそうな極太のマジックだった。
この為に買ったんだろうか。
そんなことを考えながらメッセージを書く。
積もるようなことは話し尽くしたから、月並みだけれど感謝と再会の誓いを。たっぷりと三分の一ページを占拠して書いてやる。
「できたぞー」
「おーサンキュ。って写ってる! おっま、書いてすぐに閉じるなよなー」
「ヒャハ! 悪りー悪りー」
今更インクに息を吹きかけている友人に、書いてやったんだから堅いこと言うなよ、と笑う。
そして、自分のアルバムに意識が向く。貰った後、パラパラと捲っただけで机にしまっていたのだ。
ずしり、と感じる重みを机から引きずり出し、ケースから抜き取って表紙を開く。すぐに自分のクラスにぶち当たった。
個人写真は、普段から騒がしい奴も、いつもは小難しい顔の優等生も、皆一様に笑っていた。陽気なカメラマンに笑わされたんだ、と思い出す。
左のページの中央で大口を開けて笑う自分を見つけた。
まだ眠り続けている眼鏡も、珍しく帽子をかぶっていない姿で、こちらは『み』だから右のページで笑っていた。
一枚捲ると、行事の写真のページだ。原形をとどめないコラージュにひとしきり笑って次のページにいくと、クラスのフリースペースになる。
このクラスは担任が英語教師なので、『この人を英単語で表すなら?』という企画だった。回答を集計して最も多かった回答を載せているらしい。
自分は『demon』だった。誰だ書いた奴。
そして、すぐ横に御幸一也の名前を発見し、宛てられた単語に思わず吹き出す。
「おいお前これ見たー?」
のそのそと起き出した気配を振り返る。
緩慢な動きで持ち上がる頭の前に例のページを差し出す。
御幸はニ、三度瞬き、ぽそりと呟いた。
「……すみれ?」
「……マジボケか?」
呆れ声で言ってやると御幸が身を乗り出してくる。
誰がこいつを可憐な紫色の花に喩えるのだろうか。そもそもそこに書かれているのは『violet』とは似ても似つかない単語だ。
「え? 見して」
「自分のは」
「はっはっは。寝起きの俺が立ってロッカーに取りに行くと思うか?」
アルバムの角で頭を小突いてやった。腹立たしいほどに俺様野郎だ。
「お前は『smile』より『laugh』だな」
微笑ってのは、もっとなんと言うか、清らかなものではないのだろうか。
何故こいつにその言葉を。すみれほどではないにしろ、クラスメイトの御幸観に疑問を投げかけたいところだ。
「あ、なにそれ『スマイル』なの?」
やっと意識を覚醒させた御幸がアルバムを引き寄せて本格的に読み始める。結局取られた。
「読んでなかったん?」
「おー。貰うだけ貰って突っ込んでたわ」
自分より上手がいた。あんまりな、だが予想通りの言葉にため息を吐く。
こいつの表での活躍しか知らない人が聞けば驚くだろうが、御幸は多少、いや大いにいい加減なところがある。よくこんなのがうちの正捕手を務めていたものだと思う。
ズボラな元二番の指は、ページをめくり部活動の集合写真に行き着く。
「うちは……あった。見つけやすいな、うちだけ超大所帯」
人数が少ない部は後輩を交えての撮影をしたところもあったようだが、野球部はそうもいかない。
何人かがそれを望んだが、大人の都合の前には無力だった。
しげしげと写真を見つめ、御幸が黙り込む。何を考えているのかと覗き込めば、感慨深そうに口を開いた。
「……老けたな」
「アホか」
たっぷり一分黙った挙句に言うのがそれか。成長こそすれ、二年かそこらで老けてたまるか。
「でもお前変わってねぇな」
「誰の背が止まってるって?」
「はは、被害妄想だって……ほら、そういうところも」
無意識にヘッドロックをかけている自分に気付く。「ギブ」と呻いたので解放してやると御幸が半ば大袈裟に肩を上下させる。
「じゃなくてさ、今のは冗談にしても……わかんだろ?」
「ああ……」
言わんとしていることは理解できた。もっと本質的な、根っこのところはちっとも変わっていない。それはきっと俺に限らず、たとえばこいつ自身も。
序盤のページに申し訳程度に載った一年生時代の写真を見てもそれは明白だった。
「ん?」
でかい足音がして、廊下に出ていた数人が駆け込んでくる。
「先生来た」
一瞬どよめきが大きくなり、それから静かになった。
先生が荷物を教卓に置く間にいそいそと椅子に座り直す。御幸からアルバムを取り返すことも忘れない。
最後のLHRは、最も先生が喋る時間の割合が高い。統計を取ったわけではないが、どこもそうだろう。
早々に卒業証書を配り終えると、あとは先生からの長いメッセージの時間となった。なにしろ一年分、いや、三年分だ。
皆神妙な顔で押し黙る。先生が感極まって声を詰まらせると、もらい泣きをする者さえいた。
俺はその空気が少しだけ息苦しくて、先生の背後のぴかぴかになった黒板を見ていた。
後ろの席では、御幸がまた机に伏せて小さく息を立てていた。寝ても寝ても寝足りない奴め。試合の後でもここまではならない。
外ではまだ音を立てて桜が揺れ、花を散らしている。帰る頃にはレッドカーペットならぬ、ピンクの絨毯が出来ているだろう。
声に意識を引き戻され立ち上がる。やっと短い、体感的には長い長い拘束時間が終わった。先生が何を話したのかは殆ど覚えていなかった。
最後の礼もうやむやに再びざわめきに包まれた教室の中、眠りこける戦友に声をかける。
「おい、帰んぞ」
「んぅ……」
「御幸、」
背を揺さぶると、嘘のように勢いよく立ち上がった。
「ああ」
思わず息を呑んだ。その赤い目に。
「最後なんだな」
そう言って御幸はすっと目を細め、きらきらと笑った。
前言撤回だ。
積もる話とお別れと、それから少しの空元気。
ああ、本当にこいつは笑うのが上手い。






2007/03/23