自分の呼吸の音がうるさくて、外界から遮断されているような感覚に陥る。
仰ぐ夜空は湿気で濁っていた。星がちらちら揺れている。
「よ」
声と共に、真上から覗き込まれた。ぼんやりと辛うじて開けていた二つの目の間で、見知った顔が像を結ぶ。学年柄ポジション柄、それなりに話すことの多い先輩――うちのエースだ。
「お前、いよいよマゾじみてきたな」
「?」
ものすごくぽかんとした顔で相手を見ていたと思う。言ったことを理解できなかったのが半分と、なぜ自分にだけ、というのが半分。
大の字で指先すら動かせないさまを笑ったのだろうが、そもそもここに集う仲間は皆、マゾっ気と紙一重の負けん気を少なからず持っている。引きずり出されのだ。監督の挑発混じりの鼓舞と雷市の飢えに。
「自覚ないのがさらにヤバい」
喉の奥を鳴らすような笑いは、次第に歯を見せるそれに変わる。試合中よく見せる顔だ。不意に、背筋が変に震えた。
「動けるよーになったら飲んどけ」
俺の顔の横にドリンクボトルを置いて、真田先輩はストレッチの相手を捕まえに行った。
ボトルはギリギリで手に取ることができたが握力は残っていなかった。



真田先輩はすぐそばにいるよりも、距離を開けて向き合った方が怖い。これも、俺に限った話ではない。むしろ、対戦校の選手のほうがそれは身に染みて感じることだろう。
俺はその凶暴さをとても好ましく思っている。美しいと思う。捕手の俺は得をしている。
怖いのは普段の姿との落差もだ。温度差と言った方が感覚としては近いかもしれない。さんずいの涼やかな顔かられっかの高熱を孕んだ顔へと。
そしてさらに怖いこと。境界線がどこにあったのかわからないということだ。
(……あ)
視線の先にその人はいた。今まさに校舎を出て行こうというところ。
自分もそちらに向かうところで靴を履きかえる先輩と目が合う。
「お疲れっス」
つい、その顔を子細に観察した。
今はまだ、日常の顔であるようだった。こちらもこちらで好きだったりする。わざわざ本人には言わないけれど。
「寝た跡ついてる?」
整った形の二重の目が覗き込んでくる。薄い笑みを湛えた口元に、そうでないとバレているのではないかと緊張した。
「寝てたんですか?」
「午後の古典は寝るしかない……」
などとぼやいて、あくびを一つ。それすら鑑賞に堪えうるのだからつくづくこの人は恵まれている。
「跡にはなってないっスよ。大丈夫です」
「ならよかった」
どちらからともなく会話を打ち切って、外に出た。
「今日多めに投げときたいからさ、付き合えよ」
「はい!」
5cm違うだけでこうも違うのかというコンパスを見せつけながら真田先輩は少し先を歩く。肩越しに振り返る目に、少しの違和感を覚えた。
歩調を緩めてしまい、先輩の手が訝しげに視界でひらひら動いた。奇妙な感覚はまだ消えない。
「おーい」
(ああ、これが)
抱いた感覚の正体がわかった。先輩の目の中に火を見たのだ。それも、とろ火の火種だ。境界線を見てしまった気がした。
「熱中症じゃねーだろうな?」
「……いえ、大丈夫です」
なんとか取り繕って、視線を落とす。脳の容量が足りないので、着替える間も極力目を見ないようにした。
今日は、後が心配なくらいに得をした。



「うし、行くか」
悠然と歩く1の背から、声が響く。
先輩の足音が、点火スイッチのそれに聞こえた。






2014/07/09