「春市、」 頭に、重みを感じた。その感覚も、同時に降ってきた抑揚のない低い声もなじみのものになっていることに、春市は苦笑する。 二人のときに――いや、公衆の面前ですら油断はできない。ちょっとでも気を抜くとすぐにこうやってぴったりと寄り添ってくる。 でも今日は、焦るより先におかしくなってしまった。ある実験の話を思い出したからだ。 「――小猿みたい」 「……え」 ぴくり、と相手が反応する。伸ばされかけた腕が止まる。もちろん、わざと聞こえるように言った。 「えーと、食べなきゃ生きていけないよね。……こーら、そっちの意味じゃなくて」 「どういうこと?」 頷いて同意を示す振りをしながらもぞもぞと触れてくる手をぴしゃりと叩いてやる。 もう少し気を持たせてもよかったが、そのうち焦れて手の動きを再開させることが容易に想像できたので先を話すことにした。 「小猿に二匹の母親がいたんだけどね」 「春市、大丈夫?」 間髪入れずに目を覗き込まれる。投げる球だけでなく、言葉の受け取り方も至極まっすぐであるらしい。 脳が全部右脳で出来ているようなこの相手に突っ込まれるようではおしまいだ。 「何その目。母親と引き離して、作り物を二種類与えたんだ。ミルクを出すのと出さないの」 言いながら、また笑みが漏れる。そこから先は、この狼の無意識とそっくりな話だったからだ。 先ほど自分で誘導しておいて卑怯かもしれないが、問いをひとつ投げてみる。 「どっちを選んだと思う?」 「食べなきゃ生きていけないんでしょ」 相手が本気で困惑し始めたとみえて、春市はそろそろちぐはぐな謎かけを打ち切ることにした。 「うん……でも、その猿が選んだのは違った」 降谷は不思議そうに首をかしげる。――ここからは後出しだけれど。 「食べ物を与えてくれない母親の方が、柔らかくて温かかったからだよ」 きょとんとした顔。 「なんだ。先に言ってよ」 しかし、そう言いながらも相手の表情には、何かがすとんと落ちたような感じが見て取れた。 久々の実家だったけれど、休み明けまで十分に余裕を残して帰ってきた。否、羽根を伸ばす暇もなくばたばたとトンボ帰りしてきたといった方が正しい。 もっとも、その理由が自分だとは、降谷は知らない。 「休みギリギリまで向こうにいるの?」 出発の直前、唐突に言われた。普段表情の変化に乏しい分、こんな風に寂しそうな顔はよくわかる。 「そうなる、かな。お袋に拘束されそうな感じ」 「そっか」 耳でも垂れていそうなその顔を見て胸にちりりと罪悪感のようなものを覚え、思わず口を突いて出た。 「――10時過ぎたら電話取れるから」 「……うん」 失言をした、と思った。 けれど、ぱっと上げられた顔が笑顔に変わって胸を撫で下ろす。 案の定家に帰ると質問攻めで、何ヶ月かぶりに会う息子にあれやこれやと世話を焼いてきた。 10時と言っておいてよかったと思った。しかし、くたくたな様子を見てか意外にもあっさり解放された。 風呂に浸かって食事をし、久々に兄と話をして、ベッドに沈むとすぐに睡魔に襲われた。 とろんとした意識は、耳を裂く音に引き戻された。――こんなにも早く、電話が鳴った。 「――春市?」 電波が悪いのか、声が掠れている。 「うん」 暗がりに、ぼんやりとバックライトが明るい。 暫く待って返ってきた相手の言葉は、彼にしては珍しく遠慮がちに響いた。 「……寝てた?」 「寝かけてた」 言うと、相手はそれをどう取ったのか 「ごめん」 「いや、俺こそ」 なんとなく、二人とも、沈黙した。 「なんか、変な感じ」 「え?」 そう思ったのはノイズがやっと途切れたからだ。 声から、眉だけを跳ね上げるいつもの表情が想像できて、笑みが漏れる。 「青道じゃ、いつ電話しても騒がしかったからね」 「そうだね」 柔らかな音が鼓膜をふるわす。 今頃は、もう北海道だろうか。目を閉じると、音が降り続ける雪に吸い込まれていく映像が浮かんできた。本当は彼もきっと自室にいるのだろうけれど。 静か過ぎると、携帯の発する電子器具独特の小さな音が耳につく。しばらく黙っていると、また振動が伝わる。 「掛けないほうがよかったかな」 「え?」 予想外の言葉に、思わず声が震える。 電話でよかった。きっと今、自分はとてもひどい顔をしている。 それでも、自分をもっと苦しくさせたのは、次の言葉だ。 「逆に我慢できなくなりそうだから」 「……」 「会って、触りたいな」 その声がなんだか耳に残ってしまって、予定を早めた。 「重たいよ」 野生生物と同レベルで納得した相手は、やはり野生生物同様にこらえ性に欠けている。 結局後ろからぎゅうぎゅうと春市を抱きしめ、決して軽くはない体重を全てかけてくる。 「……もっと」 その声は微かに甘い。 逃してしまいそうな小さな違いを感じ取ってしまうのは、傍にいすぎたからだろうか。そう考えて、少し気恥ずかしくなる。 それに、自分にしか分からないなら、願望だと言われても反論できない。 「うん」 甘やかしすぎたのがいけない。傍にいすぎて、情が移ったみたいだ。 でも、そうやって受け入れている自分だって、結局は単純に、触れる熱を求めているのかもしれない。 「幸せだなあ」 どこか暢気なその呟きに、今度は何も言わなかった。 思っていたことは、まったく同じだったから。 2007/01/21 |