止まない雪をずっと見ていた。
早々に大貧民を上がってしまい暇を持て余したカンジは、班員が丸く座る部屋の中心を離れ、窓際に陣取った。
 ガラス一枚向こうには張り詰めた冷たさがあるはずだ。だが、そのすれすれの場所にいても、肌に感じるのは温かさだけだ。
 学校行事で来るにしてはいい施設だな。そう考えて、雪景色などというロマンチックなものとはミスマッチな思考だと内心苦笑する。ただ、こうやって建物について考えるたびにふっと母親の姿が頭を過ぎるのだから、素直に雪に思いを馳せるよりはよほどロマンチックかもしれない。
 白の中に閉じ込められた。
 雪のためにここに来たのに、雪に動きを阻まれている。なんとも滑稽な話だが、突然の猛吹雪に見舞われたとあっては、スキー教室も見合わせざるを得ない。夜の集会まではまだ時間がある。それまでは自室に待機だ。
「吉川いるか?」
 抑揚のない声がした。廊下からのそれに、ああ来たか、とカンジは思う。
「カンジ! 宇白が呼んでる」
「あー、行く」
 答えながら、笑いを噛み殺す。
 ――「カンジ」で通じるのに。
 素との違いなんてこのようにごく小さなものだが、ウシロの表向きの顔はレアだ。
 意図して作った人格ではと疑わせるほどに、ウシロは他者に対して無関心で、付け加えるなら無表情だ。だから、彼には他人に見せるための顔など必要ないはずなのだ。それなのに、ウシロは作った。
 出会ってから五年が経つ。そりゃあ小狡くもなるか、とカンジは思う。何より自分自身がその証明だ。ウシロの事など言えないほどに、巧く立ち回る術を身に付けてしまった。
「じゃあ、ちょっと出てくるわ」
「時間までに戻って来いよ」
「はいよ」
 部屋から出ると、扉の横の壁に寄りかかるようにして立っていたウシロが振り向いた。
「待たせた」
 言って、ゆっくりと歩き出したウシロに並ぶ。ウシロは足音を殆ど立てないので、一緒にいると自然、カンジの足音だけが妙に目立つ。部屋を一つ越え、二つ越えたところでウシロに訊ねた。
「何?」
 言葉に、ウシロは不思議そうな表情を浮かべた。ウシロは基本的に理不尽だが、ここでも遺憾なくそれを発揮してくる。自分から訪ねてきたくせに、こうだ。
 しばらく考え込む素振りを見せたあと、またウシロは歩き始めた。ぽつりと呟く。
「別に」
 考えたわりに、出てきたのは散々聞いたそんな言葉で、カンジは小さく笑いを漏らした。ウシロは大して気にした様子もなく、続ける。
「お前、どうしてるかなって」
 頭を殴られたような心地がした。何気ない一言だが、そこにもっと大きな意味が篭められているのは明白だった。ウシロのことだ、先ほどまでのカンジの様子など、目で見なくともわかっていたのだろう。
「放っといたらマズいって?」
「暴れでもすんのか?」
 少し、涙腺に来た。
 だから敢えて茶化すように言うと、ウシロは彼にしては珍しく可笑しそうに答えた。そのことにほっとする。
 何かと言葉を省略して話しがちなウシロだが、その拙い言葉に自分は救われるんだと言ったら、どんな顔をするのだろう。当たり前のように受け止めてくれるかもしれない。
「お前ら、どこ行くんだ」
 耳に飛び込んできた自分たち以外の声に、思わず身を竦ませた。考えてみれば、自室待機を命じた以上、誰かしら見回りに出ているのは当たり前だった。
「飲み物買いに行くだけっす」
 それでもすぐ気を持ち直し、カンジは中年の教師に答えた。この程度の当たり障りない嘘なら、随分得意になった。やはり自分にウシロを笑う資格はない。
 教師を振り切ると、長い廊下の終わりが見えてくる。そこを折れれば、出口だ。
「どこ行くんだよ」
 再びウシロから理不尽な発言が飛ぶ。ひょっとしたら何も考えていないのか。いや、それはない。
 今に限っていえば、まさかさっきのは本気じゃないだろう、という意味だ。こんなに寒いのに水分なんて正気かだとか、まして少し待てば夕食でわざわざ長い距離を歩いて自腹で買わずとも済むのにだとか。
 我ながらよくもこんなにそれらしいことを並べ立てたと、カンジは自分で自分に感心せざるを得ない。ウシロの真意を推測するのも、五年の間に身に付いた癖だった。
「外じゃねえの」
 当然だとばかりに言ってやった。相手の理不尽さに対抗する気持ちも少しあったのだが、ウシロは何も言わずに付いてきた。同意見だったらしい。
 玄関口に辿り着くと、スリッパを脱ぎ、この施設に来たときに置いた靴に履き替えた。雪が染み込んだので、まだ湿気と冷たさが残っている。
「わ、すげえ……」
 外はまだ強く吹雪き続けていた。風が全く衰えていない。
 他にも教師がうろついていないとも限らないので、宿舎のある棟を避けて、かろうじて判別できる道沿いに進む。
 空っぽの食堂は電気が落とされている。もう30分もすれば明かりが灯り、最初の数クラスが入ってくるだろう。
 いくらか歩くと木が疎らになり、視界が開けた。本当に、世界が真っ白い。空を見上げて、カンジは嘆息する。ポケットから手を出して、いつのまにか道が消えた足元の雪に触れると、さらさらと慣れない感触がした。
 消えてしまいそうだ。心の中の呟きが通じたのか、手の上の雪はすぐに融けて消えた。けれど、手には確かな、じくりとした熱が残った。
 雪なのに、熱い。雪を儚さの代名詞に使うなんておかしいとカンジは思った。ここに佇んでいれば、消されるのはむしろ自分の方だと。
 思い立って、仰向けに寝転がった。視界から背の高い人間が消えたことで驚き、ウシロが振り返る。
「カンジ?」
「すげー、雪、ふかふかしてる」
「死ぬぞ」
 言いながら、ウシロもカンジの隣で横になる。そうして、二人、降ってくる雪を眺めた。
 ――あ。
 カンジが違和感に気づく。雪が真上から落ちてきている。風が弱くなったのだ。
 だが、雪の量はさらに増したように思える。肺の奥深くから息を吐き出すとさらに視界が白くなる。しばらくそのままでいると口に雪が入ってくる。痛い。
 どのくらいそこにいただろうか。顔に雪が積もり視界が悪くなってきた。隣に目をやるとウシロの姿がない。慌てて身を起こして周囲を見回すと、5m先にウシロが立っていた。手を伸ばすでも歩み寄ってくるでもなく、ただ、じっと見ている。
 離されないように立ち上がると、ウシロは背を向けて歩き出した。カンジはそれに付いていく。
 両者の距離は縮まることなく、けれど伸びることもなく5mを保っている。ウシロ、そう呼びかけたはずが声にならない。
 ――ウシロ、オレは、
「きっと、お前を待ってた」
 やっと、声になった。雪より儚い、微かな微かな声に。けれど、ウシロは振り向いた。驚きに目を丸くしている。
「なんだ、届いたのか」
 ――言葉なんか、雪に吸い込まれて消えてしまえばいいと思っていたのに。
















2007/10/7→2007/10/24 up