「おー、来た。こっち入ってこい」
居心地悪そうにきょろきょろと首を動かす後輩の姿を視界に認め、御幸は軽く片手を上げた。
廊下の影はぴくりと動き、すぐさま、ほっとしたとばかりにぱたぱたと駆け込んでくる。
きっと通知表に『落ち着きがない』と書かれたクチだろう。
「何スか」
「これ。お前の分な。渡しとけって礼ちゃんが」
ぴらぴらとプリントを振って寄ってきた相手に示す。
ここ最近自分が伝令役をやらされているのは、投手と捕手だからというよりは「いつも一緒よね」とは礼の弁である。
暴れでもされると面倒なので沢村には言わないが、自分だけが弱みを握られているような気分でいるのは実に面白くないので、渡しがてら三枚組のその紙で相手の頭を小突いてやる。
「ったく、先輩を使うなよ」
「俺が使ったわけじゃないだろ」
「可愛げのねーやつ」
二年の教室ということで先ほどまであからさまに萎縮していたくせに、それを受け取るなり沢村が立ったまま熟読を始めてしまったため御幸はすることがなくなる。
ならばさっさと消化してしまおうと、開封してあった箱に手を伸ばし舌触りのいいプレゼントを味わっていると、沢村の視線が御幸に注がれる。
「……アンタ、これ」
思わず凝視してしまった沢村を責めるのは酷と言うものだろう。左右のフックに袋をかけきれずに、御幸の机の上には小規模なチョコのタワーが出来ていた。
「食い切れねんだよなー。美味しいんだけど。食う?」
もぐもぐと口を動かしながら聞くと、沢村の形のよい眉が吊り上げられる。
「ばっ、何言ってんだよ! アンタくれた子の気持ち考えろよ!」
「ぎゃーぎゃー騒ぐなよ、大体は義理なんだから」
きんと響く声を耳を塞いで遮断する。どうも沢村は変なところで堅い。というか、むしろここは、嫉妬する場面だと思うのだが。
御幸は残りのひとかけらを口に押し込み、体温で溶けたのか、指の上に残ったチョコレートを舐め取った。
その指先に動揺したように沢村がぱっと目を離したのには気付かない振りで切り出す。
「そーだ」
「何?」
やや上ずった声に勝利を確信し、覗き込むようにして訊く。
「欲しい?」
さっきの今で、傍目にはよく分からないであろう、御幸の言葉。
けれど、尋ねた言葉の意味は正確に伝わったようで、相手はわかりやすいほどに顔を赤くする。
こうなれば、押しの一手だ。
「なら放課後、ちょっと付き合えよ」
教室の真ん中という手前、耳元で囁けば、一度だけこくり、と頷いた。



「……人が多い!」
口を塞がれでもしたように押し黙っていた沢村が、耐えかねたように零した。
「お前の地元じゃこんなでかいスーパーなかった?」
なんでもないような顔で御幸が揶揄うと、沢村はとうとう爆発した。
「アホか! アンタ居た堪れないとかねーのかよ」
2月14日、お菓子売り場。
言い換えればそれは、チョコレートのための特設会場。
制服の男子高校生が二人でいれば、関係を推し量れない人間から見れば哀れなだけだ。
もっとも、推し量られても困るので開き直るしかないのだけれど。
「14日のスーパーってこんなに居辛いんだな……」
「お前、明日以降に来て50円引きシールとか付いてるの貰っても嬉しくないだろ」
愛故の英断をありがたく受け取っとけー、と笑う御幸に、愛が重いと沢村は項垂れる。
「どれでも好きなの選んでいいかんな」
「へ、どこ行くんだよ」
「ついでだから色々買ってこうと思って。その辺にいるから終わったら来いよ」
そう言って、カゴを片手に背を向けて歩き出す御幸に手を伸ばしかけ、引き止める術を持っていない自分に沢村は気付く。
どうせなら選んで欲しいとは、言えない。
一人取り残されて、さらに居た堪れない気持ちになりながら沢村はラックの前にしゃがむ。
行儀良く並んだ箱は、全て貰われるために可愛らしく包まれている。
眺めている間にも横から手が伸びてきて、こんなものを平気で買える女の子のエネルギーはすごい、と沢村は思う。――そういえば、御幸の机の上の包みもどれも可愛らしかった。
ふと携帯に目を落とすと悩んだまま結構な時間が経過していて、いよいよ本格的に焦りだす。
(――あ)
目に付いた、一つずつ違う丸みを帯びたチョコレートが納まった小ぶりな箱。
周りに客がいないことを確認して、オレンジのリボンがかけられたそれを掴んだ。
「御幸センパーイ?」
御幸が消えていった辺りの棚に、同じ制服を探す。
御幸の言うとおりに無駄に広いこの店内ではひとたび別れれば容易にはぐれることが出来る。初めて来た自分なら、尚更だ。
居た堪れなさに加え、心細ささえ覚え始めていると、隣の列から御幸が顔を出す。
「おお。決めた?」
その出で立ちに、待たせたことを詫びる気が一気に失せた。
御幸のカゴは、沢村と同じくらい時間をかけたと想像できる程になみなみと満たされている。
「それも入れて」
「……アンタ、それ俺に持たす気だろ」
げんなりと言う沢村に、しかし御幸は訝るように、
「は? 投手にそんなことさせませんー」
お前に持たれちゃ困るんだよ、という呟きは、幸いにも沢村には届かなかった。



「はい」
「ん、あんがと」
袋から抜き取られただけではあるけれど、こうして改めて渡されると贈り物という実感が湧いて、沢村の語調が弱くなる。
いつもこのくらいなら可愛いのに、と緩む口元を悟られないように御幸は沢村の半歩前を歩く。こっそり誘導することも忘れない。
寮ではなく、学校へと。
「え、なんでこっち」
「喉渇かねぇ?」
至極当然の質問を綺麗に無視して、自分の質問を被せる。すると面白いように乗せられた沢村は愕然とした表情を見せる。
「あ! あん時飲み物買っときゃよかったな」
つうかアンタそんだけ買ったんなら買っとけよなー、と喚き立てる沢村に、御幸は得意げに
「だいじょぶ、抜かりねーぜ」
と、紅茶のティーバッグを目の高さに掲げてみせる。
「何買ったのかと思えば……」
「ココロニクイ演出でしょ?」
「そういう台詞を表に出さなきゃ完璧だな」
「だから、学校行こ。当日だからそれの賞味期限も余裕ないだろ?」



「平気なのかよ、こんな所入って」
「ん? へーきよいっつももぬけの殻だもん」
「も……?」
「誰も来ねーってことだよ」
こっそり忍び込んだのは、給湯室。
放課後の薄暗さは、言い知れない不安や悪いことをしている、という妙な高揚感を増大させる。
「椅子、はいーか。運んでて見つかったら大変だもんな」
そして、この小さな声もより、それを煽る。
そのトーンのまま、箱に手をつけようともしない沢村を見かねたように、薬缶がシュンシュンと鳴る音よりも小さく、御幸が促す。
「湧くのもうすぐだから、食ってたら」
「ん、」
声に顔を上げ、沢村は硬い床にゆっくり腰を下ろす。いつにない丁寧な手つきでリボンを解き、チョコをひとつ口に運びかけ、やめた。
「いただきます」
神妙に手を合わせる姿を見て、御幸から微笑が漏れる。
いい頃合で薬缶の水も沸き、ちゃんとしたカップでなくて味気ないけれど、紅茶を注ぐ。
「ほいカンパーイ。何のお祝いだかわかんねーけど」
「……バレンタインの?」
「んじゃあ、つまり俺達に乾杯?」
「よく素でそういうこと言うな……」
呆れた顔を隠そうともせず、沢村は会話を打ち切り、ちまちまと口に運んでいた一つ目を飲み込む。
二つ目は、一気に丸ごと口に放り込んだ。今度は、未だ100度近くを保っている紅茶をちまちまと流し入れる。
沢村が紅茶を放すと、計ったように御幸が距離を詰めてきていて、思わず目を見開く。
「な、俺にもちょうだい」
「へ」
俺何も、という言葉を沢村が飲み込むことになったのは、無論御幸の行動によってだった。
体重で押さえ込まれ、抵抗する間もなくブレザーのボタンを全て外される。
「な、」
「上脱いで」
「は?」
咄嗟で突飛な要求に即座に沢村が応じるはずもなく、御幸は大きく息を吐く。
「あーもういい。俺が脱がす」
「ちょ、待て、何やってんだ! 絶対こんなとこじゃしねぇからな!」
「流石にここじゃ手ぇ出さねーよ。別に俺は一向に構わねーけど?」
「俺が構うっつの!」
「はいばんざーい」
間の抜けた響きに思わず両手を上げて脱がす手助けをしてしまう。完全にシャツを抜き取られたと沢村が自覚したときにはもう遅かった。
「――熱ッ」
「あー、ちょっと失敗?」
文句を言おうと自分の身体を見れば溶けたチョコレートが、そして自分の前にはデコペンを持って首を傾げる御幸がいた。
ということは、湯を沸かすのはカムフラージュで、むしろこのために忍び込んだのだろう、この男は。
「テメェ、人の体画用紙代わりにすんじゃねぇよ」
乱暴に拭おうとした手が、止まる。
右肩あたりに細く引かれた線。よくよく見ればそれは落書きの犯人の名前。
口をあんぐり開けるしかできない沢村に、御幸はしてやったりと笑う。
「自分のものには名前を書きましょー」
ぱくぱくと口を開閉させていたのもつかの間、沢村は何を思ったかへぇ、と口の端を吊り上げる。
「じゃあ、俺がアンタに名前書いてもアンタは文句言わないワケだ?」
こうなると、今度は御幸がきょとんとする番だった。
「書いてくれんの?」
「嫌って程書いてやるよ。つうかアンタもべとべとにしてやんなきゃ気が済まねぇ」
ちらりと御幸の背後を窺うと案の定、薬缶の隣には鍋。
そこに浸かったピンク色のペンを勢い良く掴むと、御幸の服を一気に剥ぎ取り、自分がやられた倍の面積を使って名前を書く。
普段から練習着に隠されて白いままの肌の上を、薄ピンクの字が覆う。
一部始終を呆然と眺めていた御幸だが、書かれた沢村の名前を見て、けらけらと笑い出す。
「ははっ。これ、写真にして取っときたいかも」
「アンタ悪趣味にも程があんだろ」
思い切りやって我に返ったのか、逸らした沢村の顔には朱が差している。
それでも、後悔の色はそこから読み取れなくて、御幸は浮かべた笑みを更に深くする。
「乗ってくれたお前に言う権利ありませーん。――沢村、」
「なんだよ」
「こっち」
人間だから一応の学習能力はあるものの、所詮沢村のトリ頭。
痛い目に遭ったばかりでほいほいと言うことを聞いて、しまったと思うのにかかった時間はただの一瞬だけだった。
「うわっ!?」
湿った感触に思わず身を捩るも、がっちりと両腕で抱き締められていてまともに動けない。
「何す、」
「ちょうだい、つったろ」
「ッ!」
下から射抜く目と、覗く赤い舌。そして、舌先には掬い取ったことを主張するかのようにチョコレート色が残っている。
直視してしまった沢村は、苦し紛れの台詞しか吐き出せない。
「……自分の名前、自分で食うかよ」
「んー、つうか、俺の名前だから他の奴に消させない? お前も、欲しけりゃどーぞ?」
「……」
普段の沢村ならば、馬鹿らしいと一蹴する。――だけれど、相手の表情に釣られでもしたのだろうか。
「え、」
しっかりと御幸の肩を掴み、胸元におずおずと舌を伸ばす。
御幸が息を呑んで固まるのには構わずに、桜色のチョコレートを一掬い、舐め取る。
そして、ゆっくりと味わって嚥下し、そっと口を離す。
「苺味の先輩ってなんか気持ちわりぃ」
「おま、書いといて言うかー」
その瞬間、一気にいつも通りに戻ったような沢村に面食らった御幸だが、間を置いて力が抜ける。
いつも通りの沢村は早口でまくし立てる。
「アンタの考えることはロクでもねぇのばっかだな」
「よく言う」
あれだけのことをしておいてつれないったらない。すでに沢村はシャツを着て、周りを片付け始めている。
御幸の身体のピンクの文字は、半分取り残されたままだ。
「自分で書いた分くらい残さず食えよー」
「いろんな意味で胸焼け起こしそーだからいい」
タオルを投げて寄越す沢村は依然として少し赤く、それに気をよくして御幸は引き下がることにする。
「ちぇ」
自分も撤収の準備をしながら、今更思い出したように辺りに目を配る後輩に声をかけた。
「じゃー、一番風呂貰いにいくかー」
「バレンタインだし?」
「そ、折角のこの日だし」
「あっほくせー」
「まったくだ」






2007/02/18